【ベストセラー 呉座勇一著「応仁の乱」を読んで】応仁の乱の原因と結果について簡単にまとめる

呉座勇一氏のベストセラー「応仁の乱」を読みました。本作品は京都を何年にもわたり火の海と化した応仁の乱について、当時の興福寺を支えていた経覚・尋尊の2名の日記をもとに、争乱の中身を紐解くというものです。

この本はベストセラーということで多くの方が読んだのだと思うのですが、本としての難易度は高めだと私は思います。その理由は、まずこの時代の人物名に私たちは馴染みがないからです。さらに同じ一族同士で敵対をするので、苗字だけでなく名前まで把握していかなければなりません。また、この本は小説でなく論説文として書かれています。そのため視点が次々と移り変わるため理解が追いつきにくくなります。

全部で300ページほどの本なのですが、私は100ページぐらいに達してようやく内容が頭に入るようになりました。それまでは出来事だけをまとめたメモを取りながら読んでいたのですが、せっかくなのでそのまとめメモを記事にしておきたいと思います。(wikipediaのほうが見やすいかもしれませんが)

ちなみに本作品は現時点では電子書籍化はされていません。

きちんと理解できればとてもおもしろい作品なのでぜひお買い求めください。

 

本作品の紹介

本作品では応仁の乱の展開を追うよりもむしろ、興福寺の別当たちが争乱の中で苦しむ様子や応仁の乱が残したもの、戦争が長期化した理由などについて考察しています。ただしこれらの考察をきちんと理解するには、応仁の乱の出来事を把握しなければなりません。本作品を読んで復習が必要であると感じた方に以下のメモが役に立てばと思います。

応仁の乱の原因と基礎知識

興福寺

興福寺は実質的に大和の守護の役割。興福寺のトップである別当の力は一乗院・大乗院の争いにより落ち込み、各院の門主が大和の各地域に支配力を持つ。ただし宇智、吉野、宇陀郡のみは言うことを聞かず、沢、秋山氏が反乱していた。これを幕府の力を借りてある程度抑えていたようである。
 

後南朝と北朝の争い

同時期に南北朝の合体が為されたが、しばらくは争いがあった。南朝の後亀山法皇は義満を信用し、北朝の後小松天皇に三種の神器を引き渡す。これは今後、南北朝から交互に天皇を輩出するという約束があったからだ。しかし義満が亡くなり義持の時代となるとその約束は破られた。この際、北朝の称光天皇が即位。後小松上皇の院政が始まる。
 
新体制発足後に起こった国中合戦には後亀山の影があったことから、幕府は徹底した鎮圧を目指した。また、称光天皇即位に不満を持つ伊勢の北畠満雅が挙兵。幕府は京極・土岐・一色・畠山と衆徒・国民に討伐を命じるが、北畠・沢・秋山・楠木連合に苦戦する。最終的には北畠が幕府と和睦し帰服。後亀山法皇は北畠の帰服により争いを諦め嵯峨大覚寺へ帰還する。この間興福寺は幕府と歩調を合わせる。
 
義持が亡くなると義教が将軍となる。同時に称光天皇も亡くなるが、幕府は北朝系の彦仁王を強引に即位。後花園天皇が誕生する。しかしこの間、後亀山の孫である小倉宮が北畠満雅に接近。北畠・沢・秋山連合が再度挙兵する。また同時期に土一揆も多発。衆徒や興福寺はこれの鎮圧に苦労する。北畠満雅は戦死するも沢・秋山の抗戦は続いていった。
 

興福寺の経覚と大和の紛争

経覚は大乗院のトップである門跡となる。さらに興福寺と東大寺の争いを経て興福寺の別当に就任。自分の血を残すために、兄の孫を養子にして興福寺と東大寺に送り込むなどして、大和支配を目論む。その後は別当を一乗院昭円に譲る。
経覚は上記の沢・秋山の反乱鎮圧に苦しむ。そこで三宝院満済に依頼して幕府の支援を要請。沢・秋山を敗走させる。だがその後も紛争は絶えなかった。
まず一乗院同士の箸尾と片岡の争いが起こる。箸尾には畠山、片岡には筒井・越智・興福寺が味方をする。最終的には畠山が撤兵することで治まる。
次に大乗院豊田と一乗院井戸の争いが起こる。経覚は幕府に仲裁を依頼するも、治まらなかった。それどころか豊田には箸尾、井戸には筒井・十市が味方をしたため混戦となる。義教はメンツを潰したくないので停戦要請や派兵には消極的であった。しかし言うことを聞かない豊田に激怒し派兵を決意。それを遊佐が宥めてから仲裁に入り、争いを治めた。
その後しばらくは平和を謳歌したものの、筒井が箸尾を攻撃。従来筒井を支援してきたため、幕府は畠山・細川・山名・一色・赤松の派兵を検討。しかし畠山が箸尾を説得し討伐は回避される。
また今度は越智・箸尾が筒井を攻撃。義教は畠山・赤松に越智・箸尾の討伐を命じる。収穫時期であるため経覚は争乱を懸念するも、筒井支援の光宣が強く申し立てたようである。これにより越智・箸尾は遁走し大和は一旦安定する。
しかし筒井の家臣片岡が越智の味方となったことで争いが再開。越智の善戦により筒井は潰走する。さらに越智は豊田・福知堂・小泉と大和支配を開始。興福寺・幕府へ反発した。義教は畠山を派遣し越智・箸尾討伐に乗り出す。
この間興福寺は戦乱に巻き込まれ散々な目にあう。そのため経覚は別当の辞任を幕府に要請する。しかし、その後別当となった兼昭が義教の怒りを買い失脚すると、経覚も義教に不満を抱くようになる。経覚が税金の納付を断ると義教は激怒。経覚を追放し、一条兼良の息子である尋尊が大乗院を統べることとなる。
 

経覚と光宣の対立

幕府は結城氏の討伐を関東で行う。この出兵を拒んだ畠山持国を罷免し、持永を家督とした。その後結城城陥落の将軍凱旋に乗じて赤松が義教を暗殺する。これを受けて細川・山名・畠山・一色・赤松が評議し義勝を将軍とし、細川が後任となる。このとき持国を赦免しようとするのだが、持永の母及び遊佐・齋藤が反対し持国を暗殺しようとする。激怒した持国の元に多くの家臣が集まり、遊佐・齋藤は持永を拉致し失踪。これにより持国が復帰する。
このような赦免の流れを受けて、経覚も動き出す。謹慎場所を抜け出し、越智の力を借り国民を率いて力づくで門主に復帰した。ただしこれにより経覚は親越智、反筒井勢力の仲間入りとなってしまう。
一方の筒井は光宣とその兄で内乱をしていたが、収拾のため弟順永を据える。経覚・越智・古市はこれを好機と光宣の解任を要求するが失敗。光宣の兄も武力で光宣を排除しようとするがこれも失敗。最終的には死亡する。こうして経覚と光宣の対立関係が出来上がる。
経覚が正式に大乗院門主へ復帰したころ、光宣の兄は豊田・古市と連携し光宣を追い出した。経覚はこれにより小泉・豊田・古市に奈良の治安維持を命じる。この背後には畠山持国がおり、同じ境遇の経覚を支援していた。ところがその後光宣が力を盛り返し、経覚は鬼園山に城を築き武装する。畠山持国に変わり細川が管領となると光宣討伐の意識がなくなり反筒井の経覚は敗走。経覚に地位を奪われていた尋尊が門主になる。さらに反筒井の中心である古市が病没することで経覚と光宣は和解する。
 

畠山の内紛

畠山持国は畠山義就に後を継がせようとした。しかしこれに反対の声が多くあり、持富の遺児である弥三郎が擁立された。これを持国は許さず討伐。ライバル失脚の好機と捉え、細川勝元・山名宗全が弥三郎を庇護する。二大大名の支持により多くの畠山家臣が弥三郎に追従。これにより持国は隠居を表明する。
時の将軍義政に持国が接近したことで、山名宗全や弥三郎への討伐が計画される。細川勝元の取りなしで討伐は中止されるも山名宗全は隠居し、弥三郎は大和へ落ち延びた。これにより畠山義就が復帰する。
落ち延びた弥三郎は光宣を頼る。それを見た義就は光宣・筒井・箸尾を討伐。越智・古市が復帰した。細川勝元の尽力で弥三郎らは赦免されるも亡くなり、光宣は弟の弥二郎政長を擁立する。
 

斯波の内紛

経覚の荘園は甲斐氏に統治させていた。しかし越前守護の斯波・堀江とその家臣である甲斐に争いが起こり、斯波が勝利する。年貢を収拾できない経覚は幕府に直轄を要請するが、甲斐を支持した幕府に不満のあった堀江が拒否する。その後斯波、甲斐の争いは激化していく。
 

畠山内紛の続きと斯波内紛

将軍義政は和解のため畠山義就に家督の引き継ぎを要請。しかしこれに義就が背いたため、義政は畠山政長を家督と認め、さらに細川勝元らに義就の討伐を命じる。これらは勝元と光宣の陰謀である。最終的に政長が勝利し義就勢は大和から一掃される。その後光宣・筒井・箸尾が追うも、義政の母の死去による一斉赦免により義就との争乱が終わる。この時吉野に逃げていた畠山義就を越智が支援。畠山政長には筒井が支援を行う。
またこの際斯波義敏も赦免される。これに慌てたのが朝倉孝景・甲斐に支持されていた斯波義廉である。そこで義廉は山名宗全・畠山義就に接近する。
 

幕府を取り巻く三勢力

当時幕府では足利義政の子義尚を支持する伊勢・斯波義敏、弟義視を支持する山名宗全・斯波義廉、中立の細川勝元・畠山政長の三勢力があった。
義政が斯波義敏の復帰を支持すると山名・一色・土岐が反抗。さらに細川と山名の同盟成立により伊勢・斯波義敏は失脚、義視が暫定将軍となる。しかし細川は義政を復帰させ、山名の思惑を遮る。細川と山名の権力争いが避けがたいものとなっていた。
 

畠山政長と畠山義就の激突

義就は上洛を諦める代わりに、越智の意思により反越智派へ攻撃を行う。これを受け光宣は細川・畠山政長に援護を要請する。戦が勃発するが中立の大乗院十市により和睦。細川勝元がこれらの安定化を仕切っていた。しかし、このことに不満を抱いていた山名宗全は、義就に上洛を要請する。
 

応仁の乱の結果

応仁の乱開戦序盤

無断上洛した畠山義就と畠山政長が戦う。この時、畠山義就を山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景、畠山政長を足利義政・赤松・細川・京極・光宣が支持している。しかし、義政が山名勢に怖気づき義就支持に転じたことから、山名勢が主導権を握る。
その後細川が大規模な軍事行動を開始。赤松・斯波義敏・土岐・武田などが一斉に侵攻を開始する。京都が火の海となる大乱になる。仲裁をしようとしていた将軍義政は中立の立場から細川支持に一転。山名は賊軍となる。ここで布陣の関係から、細川は東軍、山名は西軍となる。
義政は和睦を目指すが、細川・義視が反対。終戦の道が閉ざされる。東軍有利が続くが数万の軍を保有する大内正弘が西軍に味方をすることで西軍の勢いが増す。この際将軍御所への攻撃があったことに怒った義政は、山名宗全討伐の院宣を下させる。その後は膠着状態が続くこととなる。
講話を目指した義政だが伊勢を呼び戻したことにより義視との仲が悪くなる。義視は斯波義廉の元に走り西幕府を立ち上げる。これにより義政は義視討伐の院宣を下す。
 

応仁の乱その後

1469年に光宣が死去したため東軍がやや不利に。しかし朝倉孝景を東軍に寝返らせる。越前は京都への重要な補給路であり、このことは東軍有利の重要な転換点となっている。
不利に焦った西軍は後南朝系の後胤を天皇に擁立する。
1471年に疫病が大流行して疲弊が広がったことから争乱終結への気運が高まる。そこで山名宗全が和睦を西軍に要請するが、大内正弘と畠山義就は反対する。その後勝元と宗全はわだかまりを解消し隠居。両軍首脳が不在となり争乱はだらだらと続いていく。
赤松が大山崎、京極が近江を抑えると東軍有利が確定する。そのころ山名宗全と細川勝元が他界し講話交渉が再開された。諸将の反対にあい、後継の山名政豊と細川政元が単独和睦を結んだことで、西軍の主力は畠山義就と大内正弘となる。また山名と一色は東軍側に寝返る。さらに西軍の甲斐と斯波義廉が降伏する。
 

応仁の乱終結

義政は大内正弘に和睦を提案。義視との和解を条件に大内正弘は降伏を約束した。大内正弘の京都撤退と同時に土岐・畠山義就も引き上げを開始する。ただし土岐と畠山は降伏したわけではなかった。
畠山義就は京都を出て河内へ向かう。河内を瞬く間に抑えた義就に義政は討伐令をくだす。実力主義で権威になびかない義就に多くの地方武士が馳せ参じた。義就はさらに大和を抑えることに成功し独自の国家を築く。
その後長い紛争を経て畠山義就は撤兵したことにより赦免される。